昨日、今日と妙生寺報恩講でした。報恩講は、親鸞聖人のご法事であり、浄土真宗で最も大切にする法要です。
人間は縁次第でどのようなこともやってのけてしまう可能性があり、私もみなさんもその中の一人です。親鸞聖人のお言葉では「さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまいもすべし」とお示しくださっております。そのような私を阿弥陀さまは必ず救うと、おはたらきくださっているというお取り次ぎを、昨日はさせていただきました。
二日目の今日は、神奈川県より毛利祥生先生にご法話をいただきました。本日お取り次ぎいただいた一部をご紹介させていただきます。
阿弥陀如来さまの救いをなかなか喜べないのは何故か、一つは、お浄土へは連れていっていただきたいけど、今ではないと思っているから。ぼちぼち行ってもいい時期かなと思う時にはいいけど、まだ早いと思っている時には素直に喜べないのです。二つめは、如来さまに救っていただかなければならないほど、自分は悪い人間だとは思っていないから喜べないのです。自分がどんな人間なのか知る必要があるのかもしれません。私たちは自分が思っているほど、マシな人間ではないのです。お経の中には、私たち人間は下の下の存在、救われ難い存在とお示しくださっています。
如来さまは、貪り怒り愚かさが尽きることのない、救われ難い私たちを、なんとか救いたいと願い続けてくださっているのです。この如来さまのご本願が尽きる時はありません。苦しみ悩み続ける私がいる限り、如来さまのご本願はいつでも私たちのそばにいてくださるのです。
ご自身の体験をふまえ、ご聴聞の方々を度々笑わせてくださり、我が身を振り返る問いを与えてくださり、救われる身を喜ぶ貴重な一日となりました。
来月は11月18日(金)13時半よりお経練習会がございます。