妙生寺沿革

 

   平成十九年十一月発行 開創四百年記念史『恒河山妙生寺略史』より抜粋

  

「開祖浄玄法師は、もともと豊臣秀吉の家臣でしたが、秀吉の死後豊臣家は衰退し、落城寸前になってしまいました。その時、亡君の菩提を弔え、という大将の命令を受けて、浄玄ら主従は城を脱出。大和の願行寺にゆくことになりました。しかし大阪方の落人狩りが厳しくなりましたので、家臣とともに駿河国清水の地に来住。それは慶長十二年のことといわれます」

    (昭和四十七年発行『恒河山妙生寺縁起』をわかりやすい言葉に直し、一部省略あり)

  

 また、『清水町沿革史』にも「妙生寺 由緒 慶長十二丁未年八月 開基浄玄創立」とあります。慶長十二年というのは、西暦で言えば1607年です。

 

 しかし四百年も前のことなので、開創の様子は不明な点が少なくありません。江戸時代の末期に書かれ、駿河の国の研究には欠かせない『駿河志料』及び『駿河国新風土記』には「開祖浄玄法師 年歴不詳」とあり、開創した僧侶は浄玄であるが、開創の年はわからないとしています。それが当時のお寺側の見解だったと思われます。

  

 幸いにたった1つだけ寺の縁起を伝える史料が本寺に残されています。それが『妙生寺略記』です。第1頁の冒頭の枠外に「慶長十二年 1607年 建立」と小さい字で書かれた部分があります。しかしこれは欄外の注釈であり、筆法も墨も本文のものとは違いますから、明らかにあとから書き込みしたものです。本文には「抑も当寺ノ濫觴ヲ考ルニ、去ル慶長年中ノ事ト云々。明治三十一年ヨリ凡ソ二百八・九十有余年前ナラン」とあります。即ち妙生寺の開創は正確にはわからないが、慶長年間だろうと言うのです。慶長年間とは西暦の1596から1615年の間ですからおおよそ二十年の巾があり、何年であるとは断定していません。

  

『妙生寺略記』の筋からすると、大阪城が落城しそうになったので城から脱出し、落城後に当地にやってきた、と書かれているように思われます。もしそうならば、浄玄師が清水にやってきたのは1615年以後となってしまいます。

  

 すると当然のことながら、寺の開基は其の後ということにもなります。『妙生寺略記』によれば、開創は慶長年間とありますので1615年以後の慶長年間は、慶長二十年だけということになり、本寺の開創は即ち1615年ということになりますが、『妙生寺略記』は何年と断定しているわけではないので、妙生寺はこの頃開創されたと考えるのがよいのではないかと思われます。