春季彼岸会

 本日の春季彼岸会は約50名の方がお参りくださいました。

 

 無明長夜(むみょうぢょうや)の灯炬(とうこ)なり、智眼(ちげん)くらしとかなしむな

 生死大海(しょうじだいかい)の船筏(せんばつ)なり、罪障(ざいしょう)おもしとなげかざれ

 

という親鸞聖人のご和讃は、「阿弥陀さまは、迷いの闇の中にいる私たちを照らす灯であり、迷いの大海原に沈む私を救い出してくださる船や筏のようなお方です。ですから、智慧の眼が無いからといって、悲しんだり歎いたりする必要はないんですよ」という意味になります。

 私たちは物事を自分の物差しで考え、とらえてしまいます。物事が成立するのは、様々なことが絡み合って成立するわけですが、どうしてそうなったのかを自分勝手に短絡的に考え、決めつけてしまっているのかもしれません。これが犯人探しなら冤罪になってしまうこともあるでしょう。

 こうも考えられる、ああも考えられると、自分の理解を超えた世界に対して、思いを馳せることが出来る人というのは、私というのは真実を見ることが出来ない、自分の物差しでしか物事を見れない「無明(むみょう)」であることに気付きます。そして、私の知らないところで、知らず知らずのうちに多くの方々に支えられていることを感じることが出来るのではないでしょうか。

 仏さまのように確かな存在になれない私だからこそ、阿弥陀さまは救わずにはおれないとおはたらきくださるのです。確かな私を作り上げて行くのではなく、確かな阿弥陀さまが私をお救いくださるのです。それが他力のお救いです。

 他力と聞くと、消極的なイメージがあるかもしれませんが、そうではありません。自らの力では仏さまになれないこの私をお救いくださるという、大きなご恩をいただいた私たちです。そのような私たちですが、社会に対して出来ることはあります。人様に対して何か出来ることはあるはずです。私に出来ることは何なのか、わが身を振り返りつつ、出来ることをさせていただく御恩報謝の生活をおくりたいものです。

 

4月は10日(月)13時半よりお経練習会がございます。